**** 芥川龍之介 **** −「或阿呆の一生」 より− 三十三 英雄  彼はヴオルテエルの家の窓からいつか高い山を見上げてゐた。 氷河の懸つた山の上には禿鷹(はげたか)の影さへ見えなかつた。 が、背の低い露西亜(ロシア)人が一人、執拗(しつえう)に 山道を登りつづけてゐた。  ヴオルテエルの家も夜になつた後、彼は明るいランプの下に かう云ふ傾向詩を書いたりした。 あの山道を登つて行つた露西亜人の姿を思ひ出しながら。……  ――誰よりも十戒を守つた君は    誰よりも十戒を破つた君だ。    誰よりも民衆を愛した君は    誰よりも民衆を軽蔑した君だ。    誰よりも理想に燃え上つた君は    誰よりも現実を知つてゐた君だ。    君は僕等の東洋が生んだ    草花の匂のする電気機関車だ。――